Profile

生い立ち

1917年(大正6年)1月9日 東京生まれ
1934年(昭和9年)私立麻布中学校卒業 22歳で結核のために亡くなった長兄の「病気を治す薬の研究」に対する強い願いもあり、医学の道へ進むことを決める。
1941年(昭和16年)慶應義塾大学医学部卒業
1941年(昭和16年)慶応義塾大学医学部生理学教室助手 学問の真理の探究を通じて治療法を研究すべく生理学教室に進む。
1959年(昭和34年)~1980年(昭和55年)神戸大学医学部教授。その間、医学部長を2期4年間務める。
1980年(昭和55年)~1995年(平成7年)湊川女子短期大学学長
1980年(昭和55年)血栓止血研究神戸プロジェクト代表
2004年(平成16年)逝去

血液生理学とのなれそめ

 昭和16年に卒業とともに助教授だった林髞先生の研究室の門下に入りました。脳化学の初歩的な段階として脳のアミノ酸の変動を追及しました。私は特に脳のタンパク質にも関心を持っていましたが、そのためにも免疫の手段を習うべきだという林先生の意向で、昭和17年9月から慶應に在籍のまま東京帝国大学医学部血清学教室の緒方富雄助教授のところに内地留学をしたのです。緒方先生は病気と血液学との関係を非常にうまくつかんでおられるので、先生から応用研究のノウハウのエッセンスを教えて頂きました。

海外留学の経験

私の大学卒業は、昭和16年6月ですから、第二次世界大戦の直前という時期でした。父は米国留学を考えて費用なども準備していてくれたのですが、実現は不可能でした。私はスウェーデンの学者の著書などを読み、ぜひスウェーデンに行きたかったのです。
しかし、これもシベリア鉄道経由の道がソ連との関係などで閉ざされてしまいました。
戦後は、研究上のことで、数え切れないほど海外に出ていてスウェーデンにも何回も行っていますが、昭和41年5月に同国でも2番目に古いルンド大学から名誉医学博士号を贈られたのは、とりわけ感激でしたね。

抗プラスミン剤イプシロンの誕生

1948年(昭和23年)の夏のある日、研究室で女性の助手が「大変です。リジンが―」と大きな叫び声を上げたのです。生体にも存在する自然アミノ酸のリジンが『ものすごく薄い濃度で』プラスミンによるフィブリン分解を止めるというのです。飛んで行った私も、すぐその場で実験を繰り返しました。まさにその抑制作用は「本当」でした。それまで調べてきた物質とはケタ違いに作用は強力なのです。しかも、このリジンは、ごく僅かの化学修飾でイプシロン・アミノカプロン酸(EACA)になり、その抗プラスミン作用はリジンのほぼ10倍も強くなったのです。リジンは生体の必須アミノ酸の1つで、毒性は極めて低いものです。当然、リジンの近縁物質であEACAも同様で、毒性の低い、安全性の高い物質でした。こうして世界初の抗プラスミン剤イプシロンの誕生となったのです。

「産学共同」のはしり 三菱化学との共同研究

終戦の年の9月に大学に戻り研究を再開、21年4月に医学部の専任講師になりました。ちょうどそのころ林先生が自費で開設された財団法人林研究所と三菱化成研究所が提携して共同研究を始めることになり、東京郊外の溝の口にあった同社の中央研究所に創設される薬理研究室の責任者として私が就任することになったのです。これは、三菱化成側から申し入れがあったもので『産学共同』のはしりといえましょう。その交渉の過程で三菱化成側の責任者として骨を折ってくださったのが中央研究所次長の長沢不二男博士でした。同博士は若い私が共同開発の責任者となる条件として
(1)テーマは流行を避け文献にない独創性をもつ(2)技術的に国際水準を抜く (3) 薬となる可能性がある
の3項目をあげました。長い議論の末、選ばれた分野が線溶系であり、具体化したのが線溶酵素プラスミンの抑制物質の研究だったのです。

あとに続く若い研究者に対して贈る言葉

それは、「有能な先達を国の内外を問わず、選ぶ」
ということです。たとえ先方が超一流の研究者であっても、ためらうことなく連絡をとる、ということです。
「先達」を選ぶときには、まず先達の論文を熟読して、
第一に明解な「すじ」が通っていること、
第二に今後の見通しが、それとなく示されていること、
第三に歴史の処理が的を射ているかどうかを、
検証することです。このような努力を通じて、
これからの自己の研究テーマの国際的意味づけを明らかにすることが出来ると思います。

月刊JMS 2003年12月号 Medical Who's Who岡本彰祐(神戸大学名誉教授)より抜粋