生い立ち

1918年(大正7年)4月1日、東京生まれ。
1936年(昭和11年)東洋女子歯科医学専門学校に入学するも、医学への志を持って退学。
1937年(昭和12年)東京女子医科専門学校(女子医専、現・東京女子医科大学)に入学。
1942年(昭和17年)東京女子医科専門学校助手
1945年(昭和20年)慶應義塾大学医学部生理学教室の助手。
1959年(昭和34年)慶應義塾大学医学部講師
1966年(昭和41年)神戸学院大学栄養学部教授
1988年(昭和63年)神戸学院大学定年退職
1990年(平成2年)血栓止血研究神戸プロジェクト副代表
2004年(平成16年)血栓止血研究神戸プロジェクト代表
2016年(平成28年)逝去

研究者として

1941年(昭和16年)12月に女子医専を卒業後は、女子医専生理学教室の助手として勤務しました。当時、慶大医学部から来ていた林 髞門下の須田 勇に師事し、脳の直接化学刺激による小脳の反応の研究を行いました。脳の直接化学刺激による小脳の反応の研究に打ち込み、小脳の一部にグルタミン酸、あるいはクエン酸の微量を注入することにより、猫の目に著しい散瞳が生じる事を発見し、小脳は自律神経系の高次の中枢であることを明らかにしました。この反応は非常に驚きでした。
1945年(昭和20年)6月からは慶大学医学部生理学教室助手として勤務し、中枢神経生理学の研究を行っていましたが、1947年(昭和22年)11月に同教室の岡本彰祐と結婚した後は、夫とともに「抗プラスミン剤」の研究に従事し、ε-アミノカプロン酸とトラネキサム酸の開発に成功しました。これらの薬剤は現在も止血剤として世界中で広く用いられています。

母として、研究者として、医師として

私が東京女子医専(現・東京女子医科大学)の 学生だった頃、女子医専では「一生研究する人は独身に限る」とされていました。そうした中で私自身は、「女性が仕事 をするということは、結婚もし,子供も育てながら仕事をするということであり、これができなくては 女性の向上はあり得ない」と考えていました。夫も理解のある人でしたので、結婚後も家庭と仕事の両立を目指す道を選びました。1949年(昭和24年)には娘久美が生まれました。当時は本当に大変でした。子供を預ける人も施設もなかった時代だったので。なんだかとんでもない悪いことをしているように感じていたの。でも、やっぱりね、子供を持った女性が働くって言うことには周囲の理解がね、とっても必要なんです。キュリー夫人の研究所内の学校をヒントにして、国内初の学童保育「すずめの学校」を設立しました。試行錯誤をしながらも、なんとか家庭を維持しながら研究を続けることができました。

おしどり研究者

 慶大医学部生理学教室の先輩である岡本彰祐と結婚、「おしどり研究者」として有名であった。
「結婚相手に対しては、その人のために死ねるほどの覚悟ができる人ね。まあ、私が生きた時代は戦争もあり、いつ死んでも(殺されても)おかしくない時代でした。みんな死ぬ覚悟で生きていたの。だから結婚相手に関しても、その人のために死ねる覚悟がありました。」

月刊JMS 2010年7月号 Medical Who's Who岡本歌子(神戸学院大学名誉教授)より抜