映画《Her Life Matters》前史ー未来に続く歴史のためにー

愛読していた小説が映画化され、友人と映画館に見に行ったとする。原作を読んでいない友人は涙を流さんばかりに感激している。しかし、映画に感激しながらも、原作と違うぞ、と争っている自分がいる。私は今それと同じような葛藤の中にいる。

トラネキサム酸(TXA)の産科出血などへの使用を全世界に普及することを目的に映画は作られた。その今日に至るまでの60余年について、情報の取捨選択が行われ、全体をわかりやすくするために事実と違うと認識されかねない記載が生まれていたとしても、それはやむをえないことで、そのために映画の評価が下がることはないのであろう。言いかえれば、TXAがIan Robertsらに出会うまでの半世紀についての追加情報を提供していくのは、映画制作者ではなく、それを知っている他の者の仕事であろう。

筆者らを含むこのHPの責任者は、当時を経験した者ではないが、とりあえず、岡本彰祐・歌子の著書や彼らから直接聞いた話をたどってこの小文を綴る。その時代を直に知っておられる諸先輩によりその訂正と追記を書き足していただけることを期待して。

<はじめに>

映画の中に繰り返し出てくるリレーの場面では、走者がバトンを渡そうとするのに次の走者がいない。では、「次の走者」は誰だったのか、誰がバトンを受け取る準備を怠ったのか。この問いには、人により違った回答があるであろうが、筆者らの私見を述べる

1940年代半ばから1960年代、第1走者のEACAやTXAを開発した基礎研究者から第2走者の臨床研究者たちに、しっかりとバトンは渡されたはずである。これらの研究には、比較的早い段階からスウェーデンの研究者たちも参加した。そして次の第3走者の製薬会社(日本では第一製薬、スウェーデンではKABI社)にバトンは渡され、抗炎症剤・止血剤として世界中の患者に使われるようになった(当時の第一製薬のパンフレットKABI社のパンフレット)。では、なぜ第3走者から次の走者にバトンが渡されなかったのか。いいかえれば、Ian Robertsらが大規模研究を開始し成功させたとき、なぜ第3走者らの大きな拍手喝采が聞こえなかったのか。そこには、それまでの走者たちの高齢化、特許権の期限切れ、ジェネリック医薬品の販売開始、製薬会社の再編、その他もろもろの背景があった。しかし、いや、だからこそ、第2走者、第3走者の活躍については、誰かが語らなければならない。

(以下、敬称抜きで記載させていただくことをお許しいただきたい。)

<第1走者 基礎研究のスタート>

慶應義塾大学医学部生理学教室教授の林髞が私財で開設した「財団法人 林研究所」は、三菱化成研究所と共同で、新しい課題での研究を始めることになった。弱冠30歳の岡本彰祐が、この共同研究の林研究所側の代表であった。三菱化成中央研究所次長の長沢不二男は、独創的で、国際水準を抜くことができ、かつ、薬となる可能性の高い研究課題をとるべきだと主張した。彰祐は上野駅での雑踏での歌子との会話などから、抗プラスミン剤開発に着眼した。これは映画に描かれている。その次から。

入手しやすいアミノ酸から抗プラスミン作用を検討する実験が続けられていた。それまで検討したアミノ酸には、強い抗プラスミン作用を持つものはなかった。アミノ酸の中でリジンの入手が遅れ、その検討が始められたばかりだった1948年の「ある夏の日の午後」、実験助手Sさんの叫び声が三菱化成の研究室に響き渡った。「大変です!(リジンが)ものすごく薄い濃度でプラスミンの作用を抑えます!」 これが抗プラスミン剤誕生の幕開け。荷電理論などをもとに、このリジンから、より強い抗プラスミン作用を持つイプシロンアミノカプロン酸(EACA)を合成したのは合成化学者らの力であった。

<第2走者 基礎から臨床研究へ>

彰祐らはこの成果を国内の「酵素化学シンポジウム」で発表しようと応募したが、却下された。それでも、糸賀宣三(当時慶応義塾大学小児科)、佐藤彰一(同産婦人科)らにより臨床治験が開始され、慢性湿疹、月経過多、子宮の機能性出血へのEACAの効果が確認され、EACAの医薬品としての使用が開始された。(EACAの文献集

<第3走者 製薬会社の協力で世界へ>

アメリカ合衆国の特許を申請した。返答は「拒否する。理論的仮説に特許は与えられない」。これを突破し、EACAを世界の薬にするためには、膨大な臨床研究の追加が必要であった。彰祐らは、当時の医学部長草間良男らの協力の下、慶応医学部に講座の枠を超えた研究組織「アンチプラスミンプロジェクト」を発足させた。三菱化成、第一製薬がこれを支える産学共同での闘いだった。当時第一製薬学術課長だった竹屋康光によれば「当時の学術課の全研究費の7割」がこのプロジェクトの研究費につぎ込まれていたという。その成果は、1959年、13篇の英文論文として発表され、諸外国での特許獲得の道が開かれた。

(この時代の研究を今日の状況から安易に推測することはできない。第一製薬の医薬開発部長であった神原秋男が、「世界を動かす日本の薬」で当時の臨床研究の困難な状況を記載している。そもそも、プラスミンの亢進が病因である病気がまだ明らかではなかった。さらに、検体のプラスミン活性の測定法が確立していなかった。この状況の中で、歌子らは「抗プラスミン剤が効いた病態は高プラスミン状態」という仮説の下に、「抗プラスミン剤が効いた症例」の検体の測定からプラスミン測定法を確立させていく。)

国際的に抗プラスミン剤が認められるきっかけとなったのが、1962年にメキシコで開かれた国際血液学会である。≪プラスミンの増加が出血をきたす、抗プラスミン剤が止血効果を持つ≫ことが共通認識となった。その後、スウェーデンをはじめとするヨーロッパで、そしてアメリカで抗プラスミン剤の研究が行われるようになった。1970年の第一回国際血栓止血委員会(のち学会)では、演題70題のうちその半数でEACAがプラスミンの同定に使われていた。

<EACAからトラネキサム酸へ>

EACAの臨床使用は、より強力な抗プラスミン作用を持つ薬剤が必要なことも認識させた。重症のプラスミン性出血に有効なEACAの用量は1日量が20gを超えた。経口投与であれば、その量は薬というより「まずい食事」のようなものであった。もっと少量の投与ですむ、もっと強力な抗プラスミン剤が必要であった。彰祐らの酵素反応模式を基にした研究から、より強力な抗プラスミン剤AMCHAが、さらに、第一製薬の研究グループによりAMCHAのトランス型であるトラネキサム酸(TXA)が生まれた。効果は、AMCHAがEACAの約5倍、TXAはその倍、すなわちEACAの約10倍であった。

すでにEACAで臨床的効果が認知されていたため、より強力な抗プラスミン剤TXAは瞬く間に世界中に普及していった 。

TXAの文献集抗プラスミン療法-15年のあゆみー

<臨床試験の評価法>

当時の臨床試験について述べよう。薬効の客観的評価法として、対照群をおいた比較試験が行われるようになったのはもっとのちの時代である。この時代は、対照を置かないオープン試験が行われた。稀少疾患に対してはどうしたか。上記の神原の記載は続く。例えば、血友病患者にEACAを投与して出血症状が消退した症例があったとしよう。それが本当にEACAの効果であったとどう証明するか。当時は血友病程度の頻度の疾病でも、データベースがないから,多数の症例を対象とした検討は不可能に近かった。窮余の策として「試験的休薬療法」、即ち休薬すると悪化、再投与すると改善することを示したという。

<産科出血に対する検討>

映画の主題との関連から、産科出血への効果についての早期(1960年代)の邦文論文をネット検索する。1963年の「臨床婦人科産科」に福武勝博・佐藤彰一両博士による「産婦人科領域における繊維素溶解現象に就いて」というシンポジウムが掲載されている。常位胎盤早期剥離のTXA歳の妊婦が出血性ショックとなり、帝王切開で死児を娩出したが術後も出血が止まらない、EACAを投与すると急速に出血が減少した症例を紹介している。あるいは、1967年藤原幸郎らは「trans-AMCHAの臨床産婦人科領域に於ける臨床応用」として、産婦人科領域の出血症例TXA例を検討して、TXAが59.4%で著名な止血効果があったことを報告している。ただし、対照群をおかない臨床研究である(第6回プラスミン研究会)。

<大規模試験>

プラスミン研究会は、1962年から1986年まで、第一製薬の主催で毎年日本臨床血液学会総会後に開催された。基礎研究と臨床研究の両者の演題がある。筆者らが興味を持ったのは、いつから対照群をおいた今日的な臨床研究が行われたかであった。当然、そういう研究が次第に増加している。ただ、危機的出血に対して、TXA投与群と非投与群をもうけた比較検討は行われていない。出血性ショックで死に直面している患者を前にして、有効と思われる投薬を敢えてしないことは勇気のいる行為である。これから先の多数の出血性ショックの患者を救うために臨床研究を遂行するという使命感がなければ、とてもできない。また、その研究が大規模であり、必ず結果を出し、TXAが有効だというEvidence-Based Medecine (EBM) に貢献できるという信念が必要である。Ian Robertsらの偉業にあらためて敬意を表し、その使用が世界の常識となることを強く願うものである。

<おわりに>

彰祐は抗プラスミン剤の研究の後抗トロンビン剤の研究に進み、アルガトロバンを世に送った。歌子はプラスミン関連の研究を続け、2人とも生涯現役をめざした。彰祐は2004年、歌子は2016年に没した。歌子は生前にIan Roberts らの訪問を受け、その大規模研究を原著も読み理解し、「昔からわかっていたこと」が証明されたと言った。基礎研究者である歌子は、抗プラスミン剤が外傷や外科手術の出血や産科出血を減らすという信念は持っていたが、発症後早期に投与時期をそろえ、国際的な大規模研究を行うという証明手段は知らなかったし、もちろん実行する力もなかった。

映画だけを見ると空白の時代とも誤解されかねない20世紀後半の抗プラスミン剤研究の歴史、あるいは、「アンチプラスミンプロジェクト」のメンバーたち、三菱化成(当時)、第一製薬(当時)のトラネキサム酸開発の貢献者たちの、時代の制約の中でも最大限の貢献をともがいた歴史は、決して忘れてはならないものである。

貢献者たちの多くが老い、あるいは仙境に旅立ってしまった今ではあるが、この「追記」への訂正、加筆、あるいはさらなる追記をぜひお願いしたいと考えている。ご協力いただける方のご一報をお待ちしている。

中村久美、和中敬子

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